昭和44年12月14日 朝の御理解
御理解 第79節
「商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。」
商売をする者に教えて下さってある御理解ですね。けれどもこれは決して、商売をするという者だけではなくて、この一つの底にあるものというかね、その教えの真理というものを分からして頂くと、これは( ? )ならないことになります。だから商売をするなら、買い場売り場というてと、いうところから、これは商売だけじゃないね、まぁ百姓するならと言ってもよいし。だからまぁ一番、皆に分かる頂き方をするなら、「信心をするなら」と要ったね。
信心をするなら、買い場売り場と言う所を、まぁ基を仕込むところと、売り先という意味なんですよね、ですからお互い、信心の基を仕込む所は、やはりここですね、それを現すところは家庭であり、職場でありという訳になりますね。「人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから」とこう、私共が基を仕入れるところ、いわば信心の基を仕入れるところはここである。それを現すところはお互いの家庭であり、または生活のいわゆる現場なんですね。
生活の現場が、いわば売り先なんですで現していく。これほど例えばお参りもしておる、これほど教えを道忠実にお互いの仕事の、いわば生活の現場において、まぁいうなら安売りをするぐらいの教えを、まぁいわば行じておるのに、おかげが受けられんと、言う様な、そこんところの思い方をせずにですね、そこにいわゆる目先は損のようでも、八銭十銭かけるなら八銭かけよと言う様にですね、おかげの方を考えない。
言うなら十銭のものを八銭で売ると言う事は、お客さんのいわば、関心を買うまたは、お客さんの信用を売ることになる、あっちは安いと。と言う様になるようにですね、私共がここんところをですねね、いわゆる、おかげ急ぎをしないと言う事。目先、今日頼じきたっに今日はおかげ頂かんやったなんていったような、目先目先のことを考えずにですね、ただ信心を仕入れてきて、その信心をいかに生活の現場に安すう売るかと言う事だけにです、一生懸命やったらいい。
そこんところを「体はちびるものでないから働くがよい」ね、一生懸命にそこんところの教えを行じ、又は、教えをそこに現していく働きをすることが有難いと心得て、信心をさしてもらう。という風にも79節は頂けると思うですね。でないとこの79節を頂いて、ただここに商売するならというて、あら今日は商売人に対する御理解たい、私達にあんまり縁がないことになると言う事になるですから。
けど頂いたのはやっぱ79節ですから、皆さんに聞いてもらわないけん。すと商売をするもんだけではなくて、皆に分からして頂くために、皆が頂かして頂くために、商売をするならを、信心をするならというふうにね、買い場売り場を、いわゆる基を仕込むところをここ、ならば仕込んだものを捌くところは、お互いの生活の現場であると言う事。しかも目先のおかげのことを願わず。
思わずにですこげんすりゃあげんなると言う様な、げんきんな考え方じゃなくてですね、そういう教えを行ずることをです、有難いと心得、楽しいと分からしてもらいう信心。さぁそこにそのここんところからが難しいわけですね、口で言えばそれだけのことなんですけれども、中々そこが難しいね、そこでですそこで私共が、もうこの79節の一つ前の、78節の最後のところを、ちょっと読んでみましょう。
「神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることが出来るぞ。」とね、この神の大恩知ればと言う事ね、私共はまずその神の大恩を知ると言う事です。神の大恩を知るからです、いわゆる神恩報謝と申しますね、神恩報謝の心が、例えば79節にね、安売ることも神恩報謝の印でございますと言う事になるのですね、「体はちびるものでないから働くがよい。」と
一生懸命人が5つ働くなら、6つも7つも働かしてもらうと、それも神恩報謝のいわば表現でございますということになる時ですね、その内容がいわば充実してくるんだと。ですから結局、神の大恩を知ると言う事だと思うのです。どうやって神の大恩を知ると言う事が、実はまた難しいのですね、話を聞けば、なるほど神様のおかげを頂かなければね、一時でも、この世におることすらがでけない程しのおかげを受けておるわけですね、もう私共の周囲全てのこと、全てのものがです。
いわゆる神の大恩に浴しないものは一つもないのですから、やはり神の大恩をしらないけんといわれてもです、かというて、中々実感してそれを頂くことがでけんのですね、
79節の私共がいかに売り場、買い場を大事にさしてもらうと、基を仕込む所を大事にする、こりゃ~分かりますよね。ここでいわば教えを仕込んで帰る。昨日13日会に秋永先生が言っておられたように、このように微に入り細に亘ってですね、普通ではここまでは教えられるけれども。
これから先は教えるところはどっこもないでしょうが、これは合楽ならではという御教えを、お互い日々頂いておるのだからと、言う様な事を言っておられましたようにね、その基を仕込ましてもらう、そこんところを大事にすると言う事は、皆さん分かるでしょう。本当のことを分からしてもらう、ですからその基を仕込む所を大事にする。いわゆるだからこそ教会中心にもなれる訳です、教会中心主義もなれる訳です。
これがですね、基を大事にするというそのところ、教会中心主義と言う事になるとですね、非常に信心が美しゅうなるです。いわゆるここでいう、目先のことなんかは、もう考えられなくなってくるです。それが( ? )です。ね、例えて申しますと、ここで大和さんとか、久富勇さんが、ここの研修部の部長さんでしょう?部長とか副部長をしておられるでしょう。ですからどんなに沢山、あちらこちらに研修会があり共励会があります。ここだけではありません。
久留米地区の場合、あの久留米、松影会ですか松影会ね、なんかの場合もあるし、なら築水連合会のこの( ? )場合もあります、それでそのどういう所にでも、その2人揃うて、やはり行かれるわけですね。もう誰がいかんでもだからここだけは、その行かれるわけですね、はぁあすこの信徒会は、中々良い話があるけん行こうと、あすこの信徒会は、あんまりつまらんけんもう行くめと言った様に、自分中心主義になるとそう言う事になるです。いわゆる目先のことを考えるとそう言う事になるです。
すぐ損得に結びつける。けれどもならお2人の場合は、教会中心、そのことだけにはですよ、教会中心主義ですから話がよかろうが、悪かろうが忙しかろうがどうであろうが、そのことだけは、もう自分のことを投げおって行かれる。私は教会中心主義になる、いわゆる基を仕込む所を大切にすると言う事は、私は教会中心主義になることだと思うですねね、それをもっというならば、私中心ではなくて、神様中心と言う事になる訳ですね、ですからもうおかげとは非常に縁の遠いもんになるんです。
目先のおかげと言う事とは。けどもそういう例えば、修行をさしてもらうところからですね、自分が育てられておることの、に驚くぐらいです。教会中心主義、自分中心主義をですね、振ってそして教会中心主義で信心をさして頂いて、それは責任上でもありましょうけれどもです、行きよっていかにも目先、損のごとあるけれども自分自身が受けていくおかげ、また自分が育てられていく信心というものがです、誰よりも育てられておることに例えば、ご本人達が気付いておられるであろうようにです。
だからこの役しとるけん、あたしだん行かんなんと言う様な事じゃったかもしれんけども、最近ではそうではなくて、そこんところが有難いと心得ての、いわば信心が段々できよんなさるというふうに思われますね、目先のことを言わずにて言う事は、私はそう言う事だと思う。基を仕込むというところを大事にすると言う事は、そう言う事だと思うね、そこから生まれてくる体験。例えばなら売り場を大切にする。
いわゆるお互いの生活の現場で、信心を現していくところを大事にすると、言う事なんかでもですね、だから私共が本気で、その気になって、そこに安売りをしなければならんというかね、目先のことを考えずに行じていくと言う事になりますかね、いわゆるそこから生まれてくるものです。まぁここにその78節から引用いたしました、神の大恩を知ればということ、そういう例えば行じかた。
例えてなら生活の現場で、これは必ずしも、相対的な場合だけじゃありません、人に対する言葉に対すると言う事だけではありません、信心を現していくことは。例えていうなら、御教えを頂いてきた。今日は例えていうと、大地をみだりに汚すなよという御教えを頂いてきた、そこで大地をみだりに汚さないことを本気で行ずると言う事が、私はそれを行ずることが、仕入れてきたのを売ることと同じことなんですよね。
ですから段々いわば仕事が仕事を教えてくれるようにですね、あぁ大地を汚しちゃならん、大地汚しちゃならんお話を頂くと、大地そのものが神様のお姿だからね、その大恩は分からん、まだ知らんけれども実感としては。けれどもそれが神の御姿だから大地汚しちゃならんと思うわけね、所がそこからですね教えられるもの、そこから仕事が仕事を教えてくれるように、信心が信心を教えてくれるものを体得するです。こりゃ汚さんだけじゃいけんな、清めていかにやならんと言った様なものが生まれてくるです。
これなんかもう、汚すなよと仰ったことを行じていきよるとですね、これは汚すだけではなくて、清めていくことだとね、または、汚しておる人たちに成り代わってお詫びをすることだとね、久富繁雄さんのお話の中にありますようにね、百姓ですからね、肥やしをかけるということは、もうこれは当たり前のことでですね、畑に肥やしをかけるちゆうことは。だから、これだけはお許し頂かなきゃ百姓は仕様はない、大地を肥やすためには仕様がないね、だから肥やしをやる。
だからそこんところは、だからもう割り切って、みんなが大地にいわば汚物をこうやって蒔く。けれどもそこに、またその次を教えられておるものですよね、それはもう済みません、済みませんち言うてかけるちゆう。大体いうならもう当たり前のことなんだね、もう神様少し避けて下さい、済みませんと言った様な思いで、例えばそのことに気付かせてもろうたり教えられたり、育てられたりする。それをね大地をみだりに汚すなよと教えられたら、本気でみだりに汚さん訳は分からん。
大地ちゃそげな大変な所であろうかと、神様のお姿で本当にと言われたが、本当にそうであろうか、けれども今日仕込んできた教えはこれであるから、それを行じようという気にならなければダメなんだね、それを行じる所にです、仕事が仕事を教えてくれる、いわゆる悟らして頂けれる所からです、私はね生まれてくるものが何かというとね、他所の田んぼにでけておる野菜と、自分所に出来ておるお野菜とのいわば比較するなら、信心頂いておる者のお野菜が見事にでけておると言う様なです。
体験がそこから生まれてくるんですね、だから私は実感して次の大恩が分かってくるのではないかとこう思うんですね、久富勇さんの奥さんのくにかさんがお届けされたことがありますが、種を蒔かせて頂く時に、まず大地にひれ伏しますち言われた。そしてそれが芽をきる時、その芽をきったそれを見た瞬間です、もう大変な感動を覚えますと、大地にまずひれ伏しておらなければです、次のいわば蒔いた種が芽をきる時に、そういう感動になって響いてこないです。
ほぉこれは、やっぱ神様のおかげではあるてい、こがしこ育てる育たせて下さることも、花を咲かせて下さることも、実らせて頂くことも、やっぱ天地の働きを頂かなければと、理屈で分かるじゃなくてです、まずそこにひれふしてみらなければです、次の私は体験が生まれてこないと思うです。これは大地をみだりに汚すなよと言う事だけではありませんよ。総て日にちここで皆さんが仕込まれる教えですね、仕込んで帰られるその御教えというものをです。
惜しげも悪こげもなく、自分の生活の現場に現していく、そこからです、仕事が仕事を教えてくれる、いわば段々もう自分の五体全体でですかね、天地の大恩神の大恩というものが分かって来る様になるのです。いよいよ20日は報徳祭ね、二代金光様、四神金光様、それから、三代金光様ね、四神金光貫行之君と申し上げる2代をお継ぎになった生神様、またその後お受けになられた三代生神金光様、金光攝胤と申し上げるね、お二かたのお祭りでございます。御大祭ですね、九州の恩人とね。
小倉の桂先生が言っておられますようにですね、四神様あって桂松平があるんだとね、桂松平があるおかげで、九州に道が伝わったんだとね、金光教の歴史の中に様々なことがあったんですよね、いわゆる今の教祖、今の三代金光様のご時代ね、御本部が御炎上になったり、色々な金光家のお家騒動だと、まぁ人から言われるような、今でもそうそれを非難のあれにしておるような、まぁと言う様な、やはり不祥事があったね。
ですから四神様のこと、それから教祖生神金光大神様のこと、それを別なものと別なものに見るという見方でですね。もう生神金光大神様だけでいいと、もう四神様なんかと言うことはいらんと、そういう時代があったんですね。それで九州の者は必ず拝む時に、ね、生神金光大神様、四神金光大神様、四神金光様、四神金光大神様ていうて、その四神様の名を唱える、そういうことは間違いだ、だから四神金光様を唱えてはならんという、お達しを小倉へ持って見えられた。
本部のいわば承って見えられた、偉い先生が小倉にみえられた。もうそん時にはすでに桂先生は亡くなっておられます。いわゆる奥様です。いわゆる2代の親先生がそのことを聞かれてから、御本部からのその使者に対して仰っておられることはです。「ここをどこうと思うて見えられましたか」ち言われた、「桂松平のお広前としってお出でられましたか」と仰った。四神様と言う様な事を言うたら、金光教、教会を取り潰すというひどいことだったらしいですね、
だからここを桂松平のお広前と知ってお見られましたかて、潰れても構いません、四神様あって桂松平があったのです。九州の全信奉者は、何をあなた方が仰っても、四神様をお唱えせんわけにはまいりませんち言うて、そのそれに反問されたと言う事です。反発されたと言う事ですね。これは四神様の大恩と言う事を知っておられたからです、桂先生の奥様がね、ところがどうでしょう。現在の九州の桂、四神様に対するところの御信心というものはね。
この頃報徳祭にお参りさして頂いてから、もう本当に相済まんことだとこう、もうそれこそ、もう5人と参っとるとこの教会ちゃ、もうないですもんね、教会長先生が参ってござる、いや参ってござらんとこすらも沢山あった。四神様のいわゆる、御恩に報い奉らせて頂くという御大祭に、九州から本当にいうならば数えるだけの信者が、お参りしていなかったということはです、もう本当に相済まんことだとね、ここではそういう四神様の、ん~私共はことは分かりません。
けれどもやはり、桂先生がそのように、九州の大恩人、四神金光大神様を言うておられたことを、またからまたに聞かせて頂いてです、はぁそうかなぁと思うて、その桂先生の御心に応える意味で、私共は信心を進めてまいりましたね、そして3代金光様が亡くなられてから、それが実感として分からせて頂いたことはですね、桂先生が四神様に、九州の大恩人だと仰られたような意味合いのものがですね、私は三代金光攝胤君の、御神殿に対してから、それを感じることができるね。
私の修行が、いよいよ激しゅうなってまいりました。それで善導寺の親先生も、これだけ信心するのに、おかげが受けられんちゆうのはどう言う事であろうかと思われて、月参りの時に同道して親先生が、大坪総一郎の一身上のことについて、お伺いになった。そしたら三代金光様が仰しゃられたことはですね、「道の教師としておかげを受けられたら結構です」と仰った。もうそれこそ、ビックリ致しましたですね。もうとにかく本当にまぁそれこそ、商売の神様にはなろうと思いよった。
商売ならば大きな一つ商売人にならせて頂こうという願いは、まぁ持っておったけれどもですね、金光様の先生にならねばならんて言う様な事は、もう本当にまぁビックリすることでございました。だからそのことがです。いつも私の心にありましたからですね、10何年間も、私は教師になれなかったけれどもね、なろうとすれば必ず障害が起こってくる、だからけれどもこりゃもう絶対なものだと、私は思うておった。
バタバタせんでも、時間はかかっても、ちゃんとおかげが頂けれるんだという、私は思いでおらして頂いたね、昨日そこで私がここにほんのちょっと頂いたものを、手控えに致して、まぁ( ? )紙のようなものに、紙切れの様なものに書いたものを、この頃末永さんがみんな集めて、アルバムにみんな収めてしまった。あんな紙の切れ端に書いたようなもんでも、アルバムにちゃんとこう張りますと、立派に見えます。
いや立派に見えなくても、内容が立派なんです、その中に書いてあることが、もう素晴らしいことばかり。の中に丁度古賀さんが見えて、そこで控えておられるところへです丁度古賀さんが昨日お願いに見えたことの、答えのような御教えがそこに出ておった。それにはね、数字で横に書いちゃる。「0000」ていう、ゼロ・ゼロ・ゼロとこう書いてある。御理解にですね、例えば10なら1つ、100なら2つ、1000なら3つ、10000なら4つという風に、0が増えていくでしょうが。
これほど信心するのに、どうしておかげが受けられんのだろうかというのじゃないち、おかげはひと一つも00である、けれどもその0が多くなりゃ、多くなるほどね、お互いが千のおかげよりか、万のおかげがよかでしょうがと、言う様な御理解がついてるんです。そこでなら、今日の御理解からいうとです、目先は損のようであっても、だから目先のことを考えずに、おかげのことを考えずに、例えば私が3代金光様のお言葉を、もう信じきっておりますから。
私の教師問題でも、15年も16年も経ちましても、教師になれなかってもですね、いわゆる0が0でおかげを頂いておる事実を実感いたしますから、そのことが有難く、神様にお礼が申し上げられてね。そしていよいよ私が教師の資格を頂いた時には、すでにここのお広前がでけておるね、いわばここの合楽教会の初代教会長として、神様がおかげ下さることのために、10何年もかかっておったと言う事になる。00である。まぁ椛目時代に頂いとったら、10ぐらいじゃったかもしれんね。
それが100にも万にもなって来る様な、おかげを頂かせて頂く意味合いにおいてもです、ここんところの、目先は二銭損のようであっても、と言う所が、分からなければいけないと思うんですね、同時にそのためには、私共が神の大恩を知らなければならん。神様の、神の大恩を知るところから、実感してですね、そのことができるんだと。神の大恩をしるからね、そこの生活の現場で一生懸命、安売りをしておることもです、神恩報謝の現れ、神恩報謝のいわば、真を尽くしておる。
それが姿なのだから、それが尊いものであり、有難いものになってくる。どうしておかげが受けられんじゃろうか、と言う様な事が起こってこない、心の上に。そうなりましょうが?ね、中々その神の大恩を知ると言う事はですね、説明を聞けば分かるけれども、中々難しい分からない。けれどもですそれを行の上に現していくところからです、仕事が仕事を教えてくれる、信心が信心を教えてくれるようにです、実感して神の大恩を分からしてもらう。まず大地にひれ伏せる、まずね。
こやしを例えばかける時にです、もうこれは百姓じゃけん、しょうがないといったような、割り切った考えではなくて、「すみません」と言う様な謙虚さをもって、その行にあたれと。そこから生まれてくる体験がです、天地の大恩、神の大恩をこれに感得していく事が出来る、もうこれは教えたって分かることじゃなかっちゃん、説明で分かることじゃない、自分で感得していかないけんね。
自分が本当に四神様の言葉を頂いて、無い命を助けてもらい、九州に道が開けてくる、その事実をです、桂先生ご夫妻は、いわば充分に知っておられたからね、「ここを桂松平のお広前と思うてお見えましたか」と言う様な激しい事が、本部に対して仰られることができた。3代金光さまのお言葉がですね、道の教師としておかげを受けられたが、当時、いわゆる生神様として仰いでおる、金光様が私にそう仰られたから、10何年間も、黙って待っておくことがでけたんだと言う事なんです。
そこには00であったけれどもね、0が段々増えておったという事実をですね、そこに私は3代、いわば桂先生が四神様が大恩人ならば、3代金光様は合楽の大恩人だと私は思います。その大恩人である大恩をです、私が実感しておるように、皆さんも実感なさらなければ、今度の報徳祭がですね、相済まない御大祭になってしまうんじゃないかというふうに思うのです。なら先生が仰るような実感は湧いてこないならばです、行の上にそれを現してです。
先生がああ仰るから、四神様と3代金光様の御恩に報いる所の御大祭であるならば、私共は分からんけれども、いっちょそれに打ち込んでみるんだと、ひざま付いてみるんだ平伏して見るんだと。そこから私は成程3代金光さまの御恩徳というものがですね、神の大恩というものが体験を通して分からせて頂く事が出来る様になってくるだろうと思います。ね79節がね、頂き方を変えますと、今日頂きました様な風に頂けてくるのですよ。してみると、これは商売人だけに対する御教えではないと言う事が分かりますですね。
どうぞ。